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07月21日(月)
あなたのさくら色。
今年の春に描いた作品が、スキンケアブランド主催のコンクールで二位を取りました。
![]() “さくら”をイメージした作品を募集していたので、ちょうど手元にあったこの絵を送ってみたところ、メールで一次選考、二次選考通過と報告を受けまして、おいおいこれは何かしら取っちゃうんじゃないかなと思っていたら、取ってしまいました。 景品は賞状と主催会社の商品で、タオルと石鹸でした。ちょうど石鹸が切れかかっていたので、母は喜んでいました。よかったです。 来年も出すかはわかりませんが、桜をモチーフにした作品を作ったら、また応募してみようと思います。 あなたのさくら色2014 07月01日(火)
八雲さんと米来留さんの家紋。
紋章という文化があるのは、ヨーロッパとここ日本だけだと云われています。
以前にすこし調べたのですが、ヨーロッパで紋章が使われだしたのは、11世紀か12世紀頃。いわゆる中世と呼ばれる時代に、騎士団が用いたそうです。それがやがて貴族にも波及しました。 一方で日本では、偶然にも同じ11~12世紀頃、公家が牛車に模様をつけたのが家紋のはじまりとされ、やがて武士にも広まり……ということは、旧ブログでも何度も書いた気がするので、省きます。ともかく、偶然ではありながらも、紋章文化の花開いた時期が同じというのはおもしろいものですね。 ただ、日本とヨーロッパの紋章文化の違いは、使用する身分です。最初はどちらも、貴族や武装集団のみが階級や地位などを示すために使っていましたが、日本の場合は庶民層にまで浸透したという点が特徴的です。 だからきっと、紋章院という政府機関さえあるイギリスの人から見たら、日本の紋章文化はかなり異質に見られるかもしれません。なんの地位や権力もない人たちでさえも、それぞれ独自の紋章を持っている。これはやはり、特異なことなのでしょう。 まえがきがすこし長くなりました。 今日はちょっと、日本の家紋を持って生きた外国人について取り上げたいと思います。 家紋を持つということは、日本人であるということであり、自然それは帰化した人であるということになります。 最初に取り上げる小泉八雲も、ギリシャ生まれで明治29年に日本国籍を取得しました。 ![]() 出生名は、パトリック・ラフカディオ・ハーン。元松江藩士である小泉家の女性を妻として小泉姓を名乗り、八雲という名は、島根県の前身である出雲国に縁の深い神・スサノヲが詠んだという 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を という和歌に由来すると云われています。ちなみにこれは、日本最古かつ最初の和歌とも云われています。 八雲は、英語教師として日本の学校に赴任し、やがて東大の前身である東京帝国大学の講師になりました。八雲の授業は生徒に好評で、彼が大学を去るのを阻止しようと運動まで起きたそうです。ちなみに、八雲の後任として赴任したのが漱石先生で、残念ながら先生の授業は堅苦しく、生徒からは不評だったそうです(漱石先生はこの赴任した年に三年間のイギリス留学から帰国したてで、語学力はたいへん優れていたに違いないでしょう。でも、生徒にはきっと高度すぎて、ついていけなかったのではないかなと、一ファンとしては思っています…)。 八雲の家紋は、鷺(さぎ)です。 ![]() ![]() これは八雲オリジナルのもので、八雲の出生名であるハーン(Hearn)が、鷺(Heron)と似ていたからという説があります。 八雲は、日本の文化をこよなく愛した人物で、日本の怪奇な出来事や伝承などを集めて書いた本『怪談』は、外国向けにいくつも翻訳された名著です。ちなみに、この『怪談』の英訳本の表紙には、日本の家紋〈長門沢瀉〉がデザインされています。 ![]() これほど日本を愛した八雲だからこそ、自分で自分の家の紋をデザインするというこだわりもあったのでしょう。 次に取り上げるのは、日本の華族の女性と結婚し日本国籍を得た一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)という人です。 ![]() 出生名はウィリアム・メレル・ヴォーリズ。アメリカ人です。 彼は八雲同様に英語教師として日本にやってきたのですが、青年の頃から建築家が夢で、日本でその夢を叶えることになりました。 彼が設計した建造物は、教会から個人の邸宅まで幅広く、私が特に好きなのは京都に現存する東華菜館(とうかさいかん)です。 ![]() 建物の中にあるエレベーターは、現存するものとしては日本最古のものだそうです。 この、ヴォーリズさん。旧大名家の一柳家の女性と結婚し、一柳米来留と改名します。むろん、これは彼のミドルネームを日本風にしたものですが、「アメリカ(米)から来て留まる」という洒落でもあるようです。 なお、彼と結婚した女性は三女だったので、米来留は結婚しても一柳家の当主となったわけではありません。分家の当主、ということになったのでしょう。 一柳家の紋は、『一柳釘抜』と呼ばれるものです。 ![]() これは一柳家独占の家紋です。 可能性として、米来留がこの家紋を使った可能性はあります。あるいは、分家なので形を変えたのかもしれません。 ただ、彼の葬儀の際、幕にはこのような紋がありました。 ![]() 丸にM、とでも名付けるべきでしょうか。 もしかしたら、これが米来留一家の紋だったのかもしれません。もしそうなのなら、英語を象った家紋を用いたという、たいへん珍しい例となるでしょう。 なお、江戸時代にはオランダ紋という、英語を象った紋があったそうです。ただ、これは遊びで作られたものだそうで、実際にどこかの家が用いたという記録はないとのことです。 この、八雲と米来留に共通するのは、日本を愛してくれたということでしょう。 八雲は日本のすばらしさや魅力を著述し、米来留は様々な建物をつくったり、日本の終戦工作に協力したりと、人種というものを超えた感情を抱いて、この国で生きられたのだと思います。 京都にはいくつか、米来留の建てた建築物があるそうです。昨年の大河ドラマ『八重の桜』の舞台の一つとなった同志社大学にも、米来留の建てた建物があるそうです。 秋に上洛した際、ぜひ見ることができればと思います。 06月30日(月)
古地図と家紋。
古地図とは、字の通り“古い地図”ですが、よく挙げられるのはやはり江戸時代のものでしょう。
江戸時代は、街道が整備され、さらに全国各地に大名や旗本の領地があったわけですから、正確な地図はどうしても必要だったのでしょう。 我が町海老名でも、江戸時代の地図が多く残されていて、郷土資料館ではその特別展も催されたほどでした。 古地図は、近年注目されているようで、東京をメインにした古地図の本がよく書店で見られます。江戸時代の地図と現代の地図を重ね合わせて楽しむというものらしいです。 私もかつて、そういった本を買ったわけではないのですが、江戸の古地図が見れるソフトを使って、それをプリントアウトしたものを持って東京を歩いたことがあります。ここにはむかしナニナニ家の屋敷があったとか、ここでこんな事件が起きたとか、なかなか楽しいものでした。 江戸の古地図で特徴的なのは、大名屋敷でしょう。 ![]() 見てのとおり、家紋があります。これはその大名家の定紋(ただし、毛利家のように替紋の沢瀉を載せている場合もある)で、大名屋敷には上屋敷・中屋敷・下屋敷とありますが、家紋が載っているのは上屋敷だけです。上屋敷は主人の邸宅であり、現代で言うなら藩と幕府の交渉を行う大使館でもありましたから、ここは大事な場所であると示しているのでしょう。 古地図を見慣れていない方は、こういった地図を見て、すこし疑問を持たれるかもしれません。 字が、読みづらい。 私も最初はそうでした。横だったり斜めだったり、あるいは上下逆さまだったり。 なぜこんなに読みづらいのだろう。そう思って当然です。 中学時代の恩師の方が、この疑問を解いてくれました。 「それは、文字の上に正門があったからだよ」 ああ、なるほど。それならこの変な位置も納得できます。 こういった地図であれば、初めて行く場所でも迷うことなく入口が見つかるということなのですね。 ![]() 江戸の次は、京都の古地図を見てみましょう。 京都には、大名屋敷もありました。ですが、それより注目すべきは、やはり長年そこに住み、朝廷に仕えている公家たちの屋敷でしょう。俗に公家屋敷と呼ばれるその屋敷は、すべて京都御所のまわりに集中して建っていました。 こちらの画像は、右が御所、そのまわりが公家屋敷という図です。この地図が作成されたのは江戸時代初期で、ようやく戦乱の気風がなくなった頃です。 ![]() で、こちらは同じく京都の古地図。年代は幕末で、色使いが豊かになっています。 また、先の江戸の地図のように、文字の向きが様々です。きっと、このように正門を意識して文字の向きを決めるのは、江戸時代の中期か後期に定まったことなのでしょう。 このような地図が作られなくなって、もう百年以上は経っていますが、現代から見れば珍しく、また斬新なもので、だからこそ本にも取り上げられ、私が持っているようなPCソフトも開発されたのでしょう。 古いものというのは、ある程度の年数を経ると「あたらしいもの」のように見られ、再評価を受けるものです。そうすることで、それまで眠っていた「もの」は、ふたたび活気を取り戻し、後世へと残されていくのだと、なんとなく思いました。 家紋は……、これは「古い」という語を使うべきでは、私はないと思います。家紋は、いまなお生きている文化です。現代っぽくアレンジされたり、家紋のようなデザインもよく見られます。 あとは先祖代々の家紋を、それぞれの家で、これからも大切に伝えていってもらえればいいと思います。 それが、家紋がこれからも残っていく道だと思います。 06月22日(日)
軍艦島を永遠に
先日、長崎県の端島(通称・軍艦島)が、国の史跡登録に向けて大きく動き出したことが新聞などで取り上げられました。
端島は、炭鉱として明治から栄え、半人工島として異様な姿を形成し、軍艦に似ていることからその通称が生まれました。 戦時中には米軍の潜水艦が“本物の軍艦”と思ったのか、島に魚雷を発射したという話も残っています。 現在、端島は無人島です。ですが、注目度は日に日に高まっているそうです。 ただ、今後、端島が求めるべきなのは観光地としての整備ではなく、本格的な保存活動であると、一市民として私は思います。或る番組で、端島の実情を映したものがあったのですが、そこでは劣化が進む島の現状をありありと見せて、いかに保全が必要かを実感しました。そもそもは、昭和に廃墟となってからずっとなのですから、荒れ果てて当然なのです。 それが今になり、注目を浴び、いざ上陸したいという人は多いと思いますが、現実、踏み込めない場所も多いそうですし、基本は上陸禁止というのが現状です。 ここはやはり、史跡という認定を受けて、国からも援助を受けながら、本格的に次代へ残す作業を行なってほしいものです。 できることであれば、永遠に、あの端島こと軍艦島という風変わりな島の姿を残してもらいたいです。 私は中学時代(か高1のとき)、図書館で軍艦島の写真集を見て虜(とりこ)になり、よく風景の模写を試みたものでした。あの島は、建物が密集した風景が好きな私には、まさに理想そのもので、こんな島があるのかと、最初は信じられない思いさえあったものです。 いつか、上陸できなくてもいいので、この目で端島の姿を見てみたいものです。 ![]() 中学時代は、よくこんな風に“軍艦の上にある町”の風景を描いたものでした。まさか今になっても描くことになるなんて、やっぱり好きなものはいいものです。描きたくなりますから。 |